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June 27, 2005

ヒットラー-The Rise Of Devil

Hitler-The Rise Of Devil
ヒトラーの政権誕生までを描いた作品がDVD化されて
いたので観た。ナチスの描き方が今一つ浅く、ヒトラ
ーが直接出てこないビスコンテイの「地獄に堕ちた勇
者ども」の法が見ごたえがある。しかし、二枚目の「ヒ
トラーと私」は研究用の資料としてなかなか良い。
60点
政権誕生以後はドイツ作品の「ヒトラー」を見る必要
がある。
2003年、アメリカ/テレビドラマ
エミ−賞2部門受賞
監督:クリスチャン・デュゲイ
脚本:ジョン・パールマー
主演:ロバート・カーライル
   ストッカード・チャニング
   ピーター・ストーメア
   リーブ・シュライバー
***
ヒトラーが演説の振り付けを練習しているところにゲーリ
ングがやってきてピアノを弾く出合い場面が美しい。
ゲーリングの妻、ヘレナや実の姪のゲリやエヴァ・ブラウ
ンとの一風変わったプラトニックラブなどもあり、ドラマ
だなあ、という気がする。
しかし、ドイツの上流生活が「タイタニック」のように楽
しめ、映像は美しい。キャバレー観戦などもできて社会勉
強になるかも知れない(このヘンがアメリカドラマの限界
性なのである。そういう社会の中からファシズムは生まれ
ていったのである。優雅で楽しい物質文明の維持の為に・)

1889年オーストリアのリーツで生まれる。幼年時代に
父親から虐待されて育った。最初は(牧師を目指していた
が、西欧の神学校は地域一の秀才が行くところで断念し)
芸術家を夢見てウイーンへと向かう。しかし、人物への感
情表現の不足から画家になることはできなかった。路上暮
しをしながらヒトラーは外国人労働者、とくにユダヤ人が
仕事の機会を奪っていることに気がつく。事実だったかも
知れないが、必要異常に被害妄想となる。
第1次大戦がはじまり、軍隊へ入隊する。伝令として活躍
し伍長になったが敗戦する。
ドイツは第1次世界大戦を経て、帝政から民主主義へと移
行したばかりというのに、膨大な賠償金を抱えて疲弊して
いた。そこに目を付けたのがヒトラーだった。
「民主主義は先頭のに立てないものの集まりだ」
ドイツ人は先頭に立てるリーダーを求めていた。
ヒトラーは最初は退役軍人の集まりの突撃隊(SA)のレー
ムの元での情報収集からドイツ労働党へと入った。しかし
彼は演説の上手さが認められて代表となる(これは指導が
上手かったといえる)。
やがて国家社会主義労働党となり、ミューヘン一揆とつな
がっていく。ヒトラーは自殺しようとするがヘレナに止め
られる。レーム、ゲーリングらは保身から「有罪」を認め
なかったが、ヒトラーだけは裁判で反乱罪に対する「有罪」
を認める。
 そして世界恐慌の発生と選挙による国会への進出が始ま
る。新聞記者、ゲーリヒのナチスの追求が始まる。しかし
ヒトラーはやがて首相へ就任。ヒンデンブルグ大統領が死
去すると首相と大統領制をあわせて、国家の総統となる。
そして、親衛隊(SS)による突撃隊(SA)の粛正がさせる。
そのあとは、当時の写真を使ってのヒトラーの自殺までの
ドキュメンタリーである。

ファシズムにおける個人というものは小さいものである。
ただ、社会の動き、特に政治・思想に無関心なことが問題
なのである。
このドラマでもやはり、ヒトラーの異常性にばかり、目を
向けている感がする。ファシズム、全体主義はその名前の
ごとく全体の問題なのである。気がついた時は、ゆで蛙の
ようにぬるま湯の中から抜けだせない、そういう性質のも
のである。


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June 26, 2005

ミッション

「キリング・フィールド」のローランド・ジョフィによる歴
史映画。実際に南米で起きたポルトガル=グアラニ−戦争を
虚構を交えて再現した。カンヌ映画祭で最終クレジットが流
れると全員総立ちで拍手をし、パルムドールを取った。
映画と共に「美しい時」を堪能できることは確実である。
100点
「ミッション」The Missionション (1986)
イギリス映画/1986年
126 分
製作国 イギリス
初公開年月 1987/04
監督: ローランド・ジョフィ
製作: フェルナンド・ギア
デヴィッド・パットナム
脚本: ロバート・ボルト 
撮影: クリス・メンゲス 
音楽: エンニオ・モリコーネ 
主演: ロバート・デ・ニーロ(メンド−サ、奴隷商人)
   ジェレミー・アイアンズ(ガブリエル、神父)

時は1750年、ヨーロッパ列強は南米、アフリカ、アジア
を植民地として植民地経営に乗り出していた。ローマ教会も
宗教改革で失われた勢力を挽回するためにイエズス会を通し
て世界宣教へと向かっていた。「ミッションスクール」の名
で知られるミッションとは本来、宣教村を指す。ただの教会
設立による伝道ではなく、全生活を対象の住民と共にする組
織形態である。それと共に「使命」を意味することは誰もが
知ることである。映画はこのポルトガル=グアラニ−戦争を
現地に入った枢機卿がローマ法王に報告する形で進む。
 映画の冒頭でインデオたちによって木の十字架に縛り付け
られた神父がパラナ河に流されてイグアスの滝を落ちて行く。
神父ガブリエル(アイアンズ)が、イグアスの滝壷にやって
くる。先輩の遺品となったロザリオを首にかけ、滝の上を見
つめる。自分のミッションが先輩のあとを継ぎ、インデオの
グアラニ−族に宣教をすることであることを確認する。その
付近は当初スペイン領だった。滝の隣にそそり立つ崖を這い
上がり、彼らの居住区にたどり着く。たて笛を吹いて音楽で
グアラニ−族に呼び掛けると彼らはやってくる。彼らは音
楽で治められる柔和な人々だった(最初のアプローチが良か
ったと言おうか。これは営業でも同じである)。
奴隷商人メンドーサ(デ・ニーロ)はインディオ達を捕まえ
ては売り飛ばしていた。しかし、妻を最愛の弟に寝取られ決
闘で殺してしまう。その罪に苛まれていたが、ガブリエルと
共に伝道の道に入り、インディオ達と和解、心静かな生活を
送るのだった。彼らはジャングルを切り開き農園をつくり、
楽器を製作し、富を分かち合い生活を共にしていた。つまり
聖書のルカ福音書にある原始共産制を再現していた(素晴ら
しい営業&経営力だ。宣教師が投資銀行の社長になれるのも
理解できる。神父は欧米においては国内一の秀才ばかりなの
である)。しかし、経済的成功は他の列強の目に留まること
となる。枢機卿がローマからやってきて、この地はポルトガ
ル管轄になることを告げ、引き上げを命じる。しかしメンド
−サらはそれではグアラニ−族は神に見捨てられたと思う、
彼らと共に残り戦うことにする。ガブリエルは愛と説き、メ
ンド−サを止めるが決心は揺るがない。
 大量のポルトガル軍がやってくる。神父側との壮絶な戦い
が開始される。ポルトガル軍は村や教会に火を放ち、ミッシ
ョンは壊滅する。メンド−サは教会が燃え落ちる中、ガブリ
エルが聖体(カトリック教会の祭壇の上にある十字架)をも
ちながら倒れて行く姿を見つめながら死んで行く。残された
子供達が、焼け落ちたバイオリンを拾って奥地へと逃れて行く。

枢機卿は最後に回想する。キリストと出会ったことが彼らにと
って幸せなことだったのか。そしてローマ法皇につぶやく。
「あなたの僧侶達は死に、私は生き残りました。でも死んだの
は私であって彼らではありません」

様々な利害関係が交錯する中で生きて行く我々も同じであるこ
とを確認さ
せられる
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=vd&cf=0&id=1135

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June 12, 2005

アレント、全体主義など

ハンナ・アレント(1906〜1975年)はユダヤ系ドイツ人政治
思想家です。 マーブルグ大学でハイデガーにハイデルベルグ大
学でヤスパースに哲学を学ぶ。ヤスパースは生涯の師となった
が、ハイデルベルグのマックス=ウェバー(の婦人)の知的共
同体に属し、新約聖書学者のマルチン・デべリウスに出会って、
博士論文は「アウグスチヌスの愛の概念--一つの哲学的解釈の
試み」である。このあたりからアーレントは報復の正義から赦
しの正義へという観点を打ち出している。しかし、時が彼女を
神学上の解釈の道へとは向けなかった。
1933年ナチスの迫害を受けフランスへ渡り無国籍者となり、
その後アメリカに亡命しました。英語を習得したのち「全体主
義の起原」を表す。
最初はドイツのナチズムだけを対象として研究したが、ソ連に
おけるヴォリシェキズム(スターリニズム)の問題に気付き、
全体主義にスターリニズムを含めるところに特色がある。現代
大衆社会の病理を究明し、一方的に威圧的な行為が全体主義の
源であり、対等な対話をする空間、そこで生まれる人々の 自由
を本質とする「活動」こそが大切であると説く。
方法論としてはマルクスを批判的に継承した。アレントの理想
とする革命はブルジョワ革命、とくにアメリカの革命だった。
それは「革命について」に現わされている。マルクスが(全)
社会的的革命を目指すのに対し、アレントは政治的革命を意図
した。ギリシアのポリスのように政治に対し対等な会話ができ
るアメリカを理想とする訳である。
しかし、アメリカに対して無批判と言うことでない。自由と同
時に抑圧のある空間としている。
***
推奨、参考著書
「全体主義の起原1〜3反ユダヤ主義、帝国主義、全体主義」
ハナ・アーレント、大久保和郎訳、みすず書房
発行年月 : 1981年。
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=01437263
「人間の条件」
ハンナ・アレント、志水速雄訳、 筑摩書房 、1994年10月、
1,575円(税込)
ISBN:4-480-08156-9
書評・研究
「人間の条件」という題名は日本の作家も良く用いている。
アレントはこの本で労働中心主義批判をしている。労働時間
の超過はコミュニケーションの欠如と言う疎外された事態を
引き起こし、様々な現代的問題の要因となるものである。
題材も身近であり、廉価で出ていることもあり入門に最適か
も知れない。
「アゴラ」で何回か特集された。アゴラは哲学サイトだった
が最近活動してないようである。
http://www.nakayama.org/agora/
http://www.nakayama.org/agora/9804-futaki.html
「革命について」
ちくま学芸文庫
著者/訳者名 : ハンナ・アレント/著 志水速雄/訳
出版社名 : 筑摩書房 ()
1995年06月、1,523円(税込)
序章 戦争と革命
第1章 革命の意味
第2章 社会問題
第3章 幸福の追求
第4章 創設(1)—自由の構成
第5章 創設(2)—時代の新秩序
第6章 革命的伝統とその失われた
ISBN:4-480-08214-X
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=19548227
書評
(http://www1.plala.or.jp/tomoharu/home.html )
http://www1.plala.or.jp/tomoharu/aca/onrevolution.html
研究サイト
http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/arendt/
研究書

入門書
「ハンナ=アーレント -人と思想 180」
太田哲男、清水書院 (ISBN:4-389-41180-2)
2001年12月、893円(税込)
目次
1 ハンナ=アーレントの生涯—前半生を中心に(少女時代
学生時代
ナチスの台頭
ドイツを脱出—無国籍ユダヤ人となる
アメリカへの移住とアウシュヴィッツの衝撃)
2 『全体主義の起源』
『全体主義の起源』の執筆
「第一部反ユダヤ主義」
「第二部帝国主義」
「第三部全体主義」
 第三部の成立をめぐって
3 その後の諸著作
『人間の条件』
『イェルサレムのアイヒマン』
『革命について』
『カント政治哲学の講義』と『精神の生活』
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=30917969
とくに著作として紹介しなかったが、立ち読みした感じでは、
『イェルサレムのアイヒマン』は『全体主義の起源』と
同じくナチスを扱っているが読みやすい。アレントはアイヒマン
の意外性に驚いている。
アイヒマンはSS(親衛隊)公安部とゲシュタボ(秘密警察)が
合体したのちの国家公安本部(RSHA)でユダヤ人担当の課を受
け持った悪名高い殺戮者だった。しかし、彼の身内にはユダヤ人
がいたし、ユダヤ人の愛人もいたナチスの例外者だった。ヒトラ
ーの『わが闘争』もよんだことがなく、党の綱領も知らなかった。
彼は没落した中産階級で、ナチの組織で再興を願って命令を忠実
に果たしただけだった。だが、彼は無思想だったのである。
当時のドイツ人だれもがそうだった。多くの人が(ヒトラーさえも)
道徳的な良い人で家庭人だった。道徳的だったからこそ忠実に上司
仕え問題を感じないようにした。
これは全世界的な問題である。
自由民主主義と資本主義の中で彼らは育っていた。彼らは誰もが
我々自身の可愛い?子供たちだった。
今も続いている。
宗教、哲学を敬遠する社会こそが温床、苗床である。
「国民の○×」(「国民の天皇」を除く。この本は良い本である)
を読むとき、彼らの神話は完成したことを感じる(^^);;
まあ、危ないしお金にならないし、彼らに協力した方が良さそう
だが(これがアイヒマンですね。反省(^^)9

その他、最近遺稿の「マルクス批判」が出版されている。

マルクスを読んだ人向け
「アーレントとマルクス-政治的革命か社会的革命か」
吉田傑俊他編、大月書店, 2003年09月、2,940円(税込)
ISBN:4-272-43061-0
目次
第1部 アーレント思想の射程
ハンナ・アーレントの革命論—自由と“胃袋”の問題
アーレントにおける市民社会と大衆社会
—その思想の「活動」性と「観想」性の分岐の視点から
世界疎外と精神の生きる場—活動とは何か
第2部 アーレントとマルクス
“社会的”解放か、“政治的”解放か?
—カール・マルクスvsハンナ・アーレント
エコロジーとコミュニケーション—アーレント‐マルクス関係の一考察
アーレントの発想は現代の変革に資するか?
第3部 アーレント思想の影響
コミュニケーション的行為と「人間の条件」
—ハーバーマスとアーレントアーレントとサルトル—
テロリズム論を媒介に
***
アレントの問題点
1全体的なまとまりが弱い。
 マルクスのように論理展開が明解でなく、並列的である。
 そしてそれが非常に広範囲の分野に渡っている。
 さらに、組織的にまとめる必要がある。
2 ユダヤ人としての限界だが、ユダヤ人のジェノサイドの
 問題を19世紀頃から明かとなった反ユダヤという観点に
 終わっている。ジェノサイドの問題はキリスト教にも由来
 し、それはさらにユダヤ人自身の神理解にも起原があるこ
 とを見落としている(創世記の洪水物語など見られる神の
 神の罰--ノア一族を除いて人類を全滅させる。選びの問題)。
3「全体主義の起原」において通史的な歴史批判がなく、観念
 的なもので終わっている。
1と2を自分の論理展開で補い、3は児嶋襄氏の「ヒトラーの
戦い」などで補えばもっと良い形に完成できるのではないだろ
うか。
「-第二次世界大戦-ヒトラーの戦い」児嶋襄、文春文庫、
           1992年、全10巻、各600円台
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=18701907
他。
古本屋で3000円ぐらいか?

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June 05, 2005

「ヒトラー-最後の12日間」

大学で両大戦間の資本主義、そしてファシズムを学んでから何年に
なるだろうか。先生はその歴史をかく専門家としては日本の第一人
者だった。ゼミナール大会で他大学を交えての討論会の司会などを
してからもう?年になる。
この分野の研究が役立つ可能性が出現するとはそのころ全く思わな
かった。人々は平和の中で暮らし、再軍備反対の政党達で半数に迫
っていた・・。(新しい「NTLの日記」「最後の時まで」のはじま
りか?(^^);;)
「ヒトラー--最後の12日間」
2005年度アカデミー外国映画賞ノミネート
ヨーロッパにおける映画祭で各賞を受賞。
これまで描かれることのなかった「ヒトラー映画」製作のタブー
が破られる。ヒトラーの秘書だったトラウデル・ユンゲの目を通
して最後の12日間を中心に回想されながら描かれている(らし
い)。
公式サイト
http://www.hitler-movie.jp/
公式サイトと下記著書を参考にしました。
物語
誰でも大筋はすぐ分る内容ですが、ネタバレですので注意して下さ
い。ユンゲの日記も試し読みしておきます。
***
1943年11月のある日の夜、親衛隊(SS)の将校に護衛された
若い女性達が森を抜け、ヒトラーのいるウオルフシャンツエ(狼の
巣、大本営)に向かっていた。彼女たちは総統の秘書の候補生だっ
た。誰もがこれから会うヒトラーに怖れを抱いている。その中で選
ばれたのはトラウデル・ユンゲだった。

「食事の間、一般的な、たわいない会話が交わせられたが、それで
も私は、直接質問をされない限りそれに参加する勇気を持たなかっ
た。ヒトラーは女性にたいしてはとても感じのよい優しいホストだ
った。私たちに自分で好きなものを取るように勧め、何か希望がな
いかねと尋ね、以前この列車でした旅や犬の話を若干のユーモアを
こめて話し、自分のスタッフについて冗談を言ったりもした」1)
**
それから2年後の1945年4月。ドイツの戦況は明らかに不利と
なり、ソ連軍がベルリンの周囲を包囲しつつあった。ヒトラーは、
家族・身内や直近の部下、ごく知り合いの人物とそして秘書と共に
(ドイツ)首相官邸の地下豪に退却した。ヒムラ−もベルリンから
南ドイツへ退却を勧めていた。2)しかし、ヒトラーは最後に大逆転す
る作戦をいまだに考えていた。
ヒトラーの56回目の誕生日にアルベルトシュぺ−ア軍需大臣が官
邸を訪ねる。
「今回の戦争でベルリンが焼け野原になることの唯一の利点は、そ
の後に新たな都市を建造しやすくなることだ」
総統への忠誠からほとんど武器もない状態で戦闘した結果は明らか
だった。ベルリンは地獄絵となる。大臣たちは逃亡をはかり、大物
の人物、ヒムラ−やゲ−リングでさえも裏切りをはかる。
ヒトラーは愛人のエファ・ブラウンと二人だけの挙式をしたのち、
ピストル自殺をはかる。

「1945年4月20日。ヒトラーの誕生日だ!ソ連軍の最初の戦
車がベルリンの郊外に現われた。歩兵による砲火の轟が総統官邸に
まで聞こえてくる。総統が部下からお祝いの言葉を受けている。み
んながやってきて、握手の手を差し出し、忠誠を誓い、街をさるよ
うに勧める」。2)
「一番はじめに硬直が解けたのはエファ・ブラウンだった。自室の
ドアのノブにすでに手をかけていたヒトラーの前に進み出て、その
両の手を取り、悲し気な子供でも慰めるように、にっこり笑みを浮
かべながら話しかける。「あなたも御存じじゃないの。私があなた
の傍らに残ることを。私はいかないわ」。するとヒトラーの目の中
が輝きはじめる。それから、まだ誰も彼の一番緊密な友人さえも従
卒さえも、かってみたことがないことをやった。ヒトラーがエファ
・ブラウンに接吻したのだ」
「『総統様、国家社会主義はまた台頭することがあるのでしょうか
?』と聞いてみた。『いや、それはない。国家社会主義は壊滅した。
もしかしたら、百年後にまた同じような思想が起こることがあるか
もしれん。宗教の力と一緒になって世界中に広がるようなのがね』」
5)
***
ヒトラーの最後を考えると、「聖書のなかの差別と共生」(荒
井、岩波書店、1999年)の1章において論じられてい
る「信なきものの救い」を思い出した。
ドストエフスキーの「罪と罰」と聖書の「マルコ福音書」の
文末の対比でそのことが明らかにされている。つまり、「罪
と罰」のラスコーリ二コフとユダ(ペテロ?)を対比すると、
ドストエフスキーはマルコを下敷きにして信なきものの救い
を描いている。強盗殺人の罪を犯したラスコーリ二コフはソ
−ニャの愛に打たれるのだが、深く改心するに到らない。
そして他の福音書と相違してマルコ福音書においては「救い」
に悔い改めが条件付けられてない。弟子たち(ペテロ?)も
イエスの否認や逃亡についての悔い改めの記事が見当たらな
い。マルコにおいては、マタイ、ルカと相違してユダの無惨
な「死」についての追求がない。復活には「弟子たち」が立
ち会ったとされているだけでユダが含まれている可能性があ
る(マタイ、ルカでは11人で12人目とされるユダは含ま
れてない)。マルコ福音書においては、行為義認(神の為に
良いことをしたら救われる)、信仰義認(十字架のキリスト
の代理の購いで救われる)といった教義上の条件がつけられ
てなく、万人救済説がとられているというわけである。キリ
ストの復活において表された神の愛によってすべての人間は
救われている。
私は、ヒトラーにもマルコ福音書における弟子たち、「罪と
罰」におけるラスコーリ二コフの場合と同様に信なきものの
救いを信じている。
(ヒトラーはエファ・ブラウンの「共生」の決断によって改心した
ふしがみられるが・・)。

1)「私はヒトラーの秘書だった」トラウデル・ユンゲ、足立、高島訳、
草思社、2004年、2000円、P76。
ナチスの政治的順序は以下の通りと思われる。
2)
ヒトラー
ゲッぺルス
ヒムラ−
ゲ−リング
アルベルトシュぺ−ア
3)同上書、P235。
4)同上書、P244。
5)同上書、P262。

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ヒトラー-最後の12日間]

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「人はなぜ悪にひかれるのか」

「人はなぜ悪にひかれるのか-悪の本性とモラルの幻想-」
フランツ・M・ビケテイツ、入江・寺井訳、新思索社、
2002年、3675円。
目次
序章 倫理学はなんのためにあるのか
第1章 善い動物と悪い動物
第2章 人はなぜ悪にひかれるのか
第3章 遺伝子の(過小評価された?)力
第4章 進化の善なる力と悪なる力
第5章 道徳(および反道徳)の生物学
第6章 原罪と系統発生的負荷
終章 道徳はなぜ善であるとは限らないのか
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31066995
***
今年(2005年)、映画「スターウオーズエピソード3」
と「ヒトラー」が公開される。どちらも主人公が「悪に落ち
た大人の物語」であるが、映画を見る限り主人公はどちらも
完全なる悪人ではない。「スターウオーズ」のアナキンは、
ジョダイを子供の修行者を含め皆殺しにしながらも妻パドメ
を愛していたし、ヒトラーも600万人のユダヤ人を虐殺し
ながらも、料理人に美味しい料理の感謝を忘れなかった。・
これらの映画は劇場で観てもらうことにして、ここではそれ
らの映画が投げかける悪の問題についての本を紹介しようと
思う。
従来、「悪」の問題は宗教学、倫理学の問題で観念的、理念
的に善をまず、観念的に定義し、悪をそれと相反するものと
して嫌悪しつつ描くというスタイルがとられてきた。しかし、
ダーウインの進化論以後、進化論を裏付ける形で生物学的に
科学的に論証する社会進化論誕生した。ダーウインの進化論
は楽観的で生物的な進化とともに道徳、倫理も発展して行く
というものだったが、科学的に検証すると道徳、倫理が発展
するとともに不道徳、不倫理、犯罪も狡猾になるということ
が判明した。著者はこの流れに沿って科学的に(善と)悪、
を解明している。
 倫理、道徳というのは、社会が機能し、存続しうるために、
その構成員が従わなければならない規則や規範の総体である。
この世界には善と悪、美徳と悪徳、倫理と不倫理が相互に伴
って存在する。善がなければ悪は存在しないし、美徳がなけ
れば悪徳も存在しない、そして倫理がなければ不倫理も存在
しない。それらはコインの表裏のようなものである。
訳者は後書きでビケテイツの説を以下のようにまとめている。
よくとらえているので引用する。

従来の説明の多くは、一方で初期人類は理性や道徳人間性を
発展させたが、他方で非理性、反道徳、反人間性を、要する
にダーク・ネイチャ−をもともと人類は潜在的に備えていた、
というような議論に収束する。しかし、そうした議論は理性
と非理性の、道徳と反道徳の二分法で人間性をとらえるもの
である。
 この二分法では、理性的な原因から理性的な行動が帰結し、
非理性的な原因から非理性的な行動が帰結する。同様に、善
なる原因(善なる心)から善なる結果(善行)が帰結し、悪
なる原因(邪悪な心)から悪なる結果(悪行)が生じる、と
いうことになる。しかし、そうではなく、同じ一つの原因
(善でも悪でもないが、善にも悪にもなりうる心)が相異な
る結果(善行と悪行)をもたらすものである。理性的なもの
も非理性的と言われるものも実は理性能力が生み出したもの
であり、善も悪も同じ心が生み出したものである(P314)。

原始社会における部族における協力関係、忠誠心、同胞愛と
いった美徳は、部族と部族との戦いにおいては他集団に対し
ては攻撃的な性質を持った。それは同集団の反抗者に対して
も同じことだったし、個々人の内面においても同じだった。
***
私は道徳、倫理が進化してきたということに対しても不道徳、
不倫理が進化してきたということに対してもどうも納得が行
かない。そうでなく道徳、倫理とそれと対応する不道徳と不
倫理の行動様式が進化してきただけではないかと感じた。
しかし、ながら二分法でなく一分法の倫理、道徳のとらえか
たには賛同する。この用語は宗教学、倫理学では二元論、一
元論と言われる方が多いと思う。キリスト教やその流れをく
む倫理学では一元論を正統としながらも、悪魔と神、悪と善
というように二元論でとらえてきた。一考に値する考えであ
る。

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